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明日、虐るかも・・・

- あしたやるかも - もしかしたら俺は明日また母親を虐待してしまうかもしれない。そうならない為に介護や福祉の「現実」をもっと深く知りたい。特殊な状況下での感性の正常化?ブログ (旧題 「私は彼を許さない」)

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“おばこ天使”から半世紀、変わったものと変わらないもの 

※この記事は長文の為全部読むと25分程度かかります。

おばこ天使”とは?

島田療育センター - Wikipedia より抜粋

1965年(昭和40年)、秋田県の障害児童が当院への入所を希望しながら要員不足のためにそれが実現しない実状が、秋田魁新報で報じられる。これをきっかけに、秋田県から10- 20歳代の女性15人が要員として就職する。翌年以降も秋田からの就職は続き、1967年には彼女たちを取り上げた『おばこ天使 ある青春・重度障害児と共に生きる』(藤原陽子、文芸市場社)という書籍が刊行され、ロス・プリモス、倍賞美津子の歌唱で「おばこ天使の唄」という歌(作詞・藤原陽子)も日本クラウンから発売された。彼女たちはその後、秋津療育園、東京小児療育病院、大阪の枚方療育園にも就職するようになった。




重症心身障害児の療育史研究(3)
“おばこ天使”の集団就職 その2
より抜粋

1.はじめに

1965(昭和 40)年の春、秋田県から若い女性たちが看護助手として、東京の重症心身障害児(以下、重症児)施設・島田療育園へ集団就職した。当時、マスコミは彼女らを“おばこ天使”と呼んで賞賛し、国民的美談として大々的に報じた。この出来事は“社会福祉の奇跡”とも言われた。

秋田県からのおばこ天使はその後も 10 数年間続き、就職先は東京の秋津療育園や東京小児療育病院、滋賀のびわこ学園、大阪の枚方療育園まで広がっていった。

昭和 40 年代を通じて 10 数年続き総勢 195 人に達したおばこ天使の集団就職は 1973 年頃から急減し、1976 年には島田療育園への応募者がなく、秋津療育園にわずか 3 人となった。一時の熱狂が薄れるとともに、志願者も次第に減り、1978 年頃には途絶えてしまった。おばこ天使の“自己犠牲的な奉仕の精神”は多くの国民から賞賛されたが、彼女らを待ち受けていたものは、さまざまな矛盾をはらんだ福祉現場の現実であった。 前稿では、おばこ天使の集団就職の契機となった秋田魁新報の記事から第1陣出発までの経緯を報告した。本稿では、おばこ天使第1陣、第 2陣の活動状況について新聞報道等を資料として概観しつつ、戦後障害者福祉の転換期におけるおばこ天使の意味と役割について分析・考察する。


2.重症児施設の看護職員不足

おばこ天使の集団就職は、前稿で述べたように、その背景をたどれば秋田県中央児童相談所が県内の重症児を島田療育園に入所させようとしたところ、施設側から看護職員が足りない、職員を送ってくれたら入所させることができる、との話があり、同相談所の意をうけた秋田魁新報が看護職員の希望者を募る記事を掲載し、県内広く呼びかけたことに端を発したものである。

1964(昭和 39)年当時、島田療育園の入所定員は第 3 期工事が終了し 169 人に増床していたが、人手不足により入所者は 104 人に留まり、あとの65 床が空いていたのである。施設関係者による「看護助手ひとりをあっせんしてくれれば、2、3人は……」との言葉は、秋田の若い女性のこころを大きく揺すぶった。

<中略>

開設間もない島田療育園が直面した最初の課題は運営費不足はもちろんだが、それ以上に深刻なのが職員不足であった。この問題は最終的には小林園長を辞任にまで追い込むことになる。島田療育園の 1964 年 11 月 1 日現在の入園児 104 人に対し、医師は小林園長含め 4 人、児童指導員2名、保母4人、ケースワーカー2 人、看護婦 26 人、看護助手 10 人であった。

子ども対職員比はほぼ2対1となるが、交替勤務制のため夜勤の4人と公休者を除くと、比較的職員数の多い日中でさえ、職員 1 人で 5 人以上の子どもを介護することになる。夜間には、職員 1人で約 20 人の子どもたちを見守らなければないらない状態であった。

<中略>

看護職員の勤務は激務である。日々、検温、洗顔、着替え、オムツ交換、食事、入浴等の看護・介護に追われる。しかも時には洗濯、オムツたたみ等、本来の仕事でないこともやらなければならい。

看護婦としての医療補助技術の専門性を高める機会も少なく、介護労働中心の職務内容は急速に労働意欲を低下させる。さらに月 10 日近い夜勤、1 日 10 時間をゆうに越える長時間労働もめずらしくなかった。退職する無資格の看護助手の多くがもっと勉強して看護婦の資格を取りたいという希望をもっていることから、関係者は施設に附設した看護婦養成所もしくは看護学校が必要だと考えていた。多摩の山すそに位置した島田療育園では学校に通うため都心に出るまで2時間も要し、仕事と勉学の両立は実際のところかなり難しい状況であった。

重症児療育の現場では直接療育にあたる職員としては、看護職員が中心とならざるを得ないが、上記の理由から希望者が少ない。保母、療育員、児童指導員等もいるが、人数も少なく戦力的には期待できない。この傾向はその後整備されていった国立療養所の重症児病棟でも顕著であり、児童指導員、保母の職務内容をめぐって大きな問題となっていった。

<中略>

有資格の看護婦の確保は、当時一般病院でさえ 困難であったことから、重症児施設で慢性的な看護職員不足を解消するには、無資格の看護助手を確保することで対応せざるを得なかった。島田療育園での看護婦、看護助手の募集活動については前稿で触れたが、小林園長は看護系雑誌への募集記事の掲載、看護婦養成施設や看護学校への訪問、そして新聞等のマスコミを利用した募集活動をかなり勢力的に展開したものの、看護婦の確保は困難を極めた。

1964 年 10 月末~12 月までの約 2 ヵ月余りの間に就職申込者が 64 人もいたが、実際に就職に至った者はわずか 5 人にすぎなかった。また、びわこ学園でも 1964 年に 50 床増床し、さらに翌年には第2びわこ学園(100 床)の建設に着手したものの、看護職員が集まらなかった。「園長や理事が各府県の看護学校や病院を回り、いままでにやっと五、六人みつかっただけ」だという。

<中略>

看護婦が集まらない理由を当時の朝日新聞は「職員の待遇は特に悪くないのだが、何といっても仕事のつらいことが、希望者のいない原因のようだ。子どもに二十四時間つきっきりで、食事、入浴、トイレの世話、一刻も目を離せない。その上、どんなに苦労しても子どもたちは喜びの反応を示さず、退園するのは死んだとき、という場合さえ多い」と伝えている。この他、駅から遠い立地条件、介護中心の業務内容、障害児と関わることへの家族の反対(結婚できなくなるといった偏見)等も背景要因であったと思われる。

職員不足、とりわけ看護職員不足問題は島田、びわこ、秋津といった初期重症児施設の運営におけるもっとも深刻な問題であったにもかかわらず、国の貧困な福祉施策のもとで、その解決はもっぱら施設関係者の努力にゆだねられていた。小林は職員確保のため、日本全国の看護学院、高校60 校余りを回ったが、確保できたのはわずかに 6人に過ぎなかったとし、職員不足の窮状を訴えている。

看護職員不足のままでは現職員の労働環境が悪化するのは明らかである。労働環境の悪化はさらなる離職者を誘発し、残った職員の労働加重を加速し、ついには健康破壊をもたらし、次の離職者を生み出すといった悪循環を引き起こしていった。

こうして慢性的な職員不足に陥った重症児施設は、重症児の入所と引き換えに職員のあっ旋を求めるに至ったのである。


3.おばこ天使の第1陣:島田療育園

1965(昭和 40)年 3 月 31 日午前 6 時 32 分、急行「第2おが」に乗ったおばこ天使第1陣 13 人が東京・上野駅に到着した。出迎えの模様と仕事ぶりを新聞各紙は次のように報じた。

○「よく来てくれました 島田療育園で看護 秋田の娘さん上京」

どんなにつらくとも私たちは重症障害児の お世話をします。 -三十一日早朝、秋田から東京都南多摩郡多摩町の島田療育園に看護助手として志願した娘さんたちの一行が集団就職のため上野駅についた。秋田県中央児童相談所の柿崎平さん(四四)に引率された十八歳から二十二歳までの未婚女性ばかり十三人。つきそいなど含めて総勢十七人の上京だ。スーツケース、レインコート姿で降り立った一行は、十二時間の長旅にちょっぴり疲れの色。
(中略)
一行は朝食をすませたあと、厚生省へ。滝沢母子衛生課長が「夢見たいな話でうれしい。決心した最初の気持ちを長く続け、貴重な経験としてほしい」とあいさつ。つづいて身元引受人の小林提樹島田療育園長も「遠路、ご苦労さまでした。不幸なこどもたちを助けてほしい」とお願いすると、就職者側を代表して今野とも子さん(十八)が「一生懸命やります」と誓った。 《秋田魁新報 昭和 40 年 4 月 8 日付朝刊》

○「張り切る秋田の天使 島田療育園」

心身障害の子どもたちの世話を…と秋田娘十余人が東京の島田療育園に勤務して約十日。東京都とはいえ、秋田市郊外の山村とたいして変わらない自然環境の中で痛々しい心身の不自由と戦う子どもたちの仲間になろうと努力している彼女たち……。都下南多摩郡多摩町落合の同園に現代のナイチンゲールたちをたずねてみた。
(中略)
既報のように三十一日着いた十三人の秋田娘は関係者の盛大な歓迎と報道陣にとりまかれながら同園にはいった。二、三日は身のまわりのことでいっぱい。四日目の昼すぎ、ようやく園内を一巡、子どもたちに接することができた。子どもたちの不自由さは想像以上のものだった。
(中略)
小林提授園長はこの最初のベッド視察のあとで「たいへんな仕事だが、シッカリやってほしい。しかし、あなたがたを一生、この仕事に…という気持ちは毛頭ない。女性のしあわせは、やはりよい家庭人になること。ここでの生活はいわば一生のほんのひとこまだ。とはいえ考えようによってはどこの大学でも学び得ない、どんな職場でも知ることのできない、たいせつなものを得るチャンスとなる‥‥」と話してくれた。(朝日新聞、昭和 40 年 3 月 31 日付夕刊)

各紙とも、この記事にみられるように、「つらくとも」「不幸な」「痛々しい」などの言葉を並べながら、秋田女性の決意を国民的美談として大々的に報じ、その自己犠牲的精神をほめたたえている。まるで戦地に送り出す兵士に向けた言葉のように見出しが躍っている。しかし、なぜ看護職員が集まらないのか、こうした事態を招いた福祉・医療施策はどういった問題があるのか等、背景要因の分析まで切り込んだ論評記事は、この段階では全く見られない。

秋田から上京した 13 人のほか、数日遅れて秋田で現職看護婦をしていた2人が加わり、この春総勢 15 人がおばこ天使第1陣として島田療育園に就職した。

<中略>

1期生 15 人の内訳は、秋田県内の中卒・高卒の女性が看護助手として 12 人、看護婦の有資格者が2人、事務員1人であった。15 人の経歴を見ると、年齢は 18 歳~25 歳で、高校新卒者、証券会社の社員、デパート店員、県庁のエレベーターガール、花嫁修業中の者、短大合格を蹴った者、受験浪人中の者、県立病院小児科の現役看護婦、県厚生連病院の現役准看護婦などさまざまであった。

島田療育園後援会便りはこのおばこ天使の出来事を紹介し、その喜びを次のように伝えている。

「島田療育園にたくさん働く人がきて下さって、空いているベッドにどんどん子供を入れてあげることができるようになったのです。働く人は、大分からも、富山からも茨城からもというように、日本中から集まってきてくれました。殊に秋田からは、集団できましたので、このことは、皆さまも新聞やテレビでごらん下さったと思います。皆さまのおかげで、本当に有難うございました。」 (島田療育園後援会便り、5 号、昭和 40 年 6 月)

「秋田を初め全国から集った約三十名の若い娘さんたちは、三ヵ月も過ぎてみんな元気、この人たちの好意に対して、保母講座を七日より開始、受講者は二十名を超し、先生は園の幹部たち、外部からも適切な講師を招く計画。暑さにもめげず仕事に勉強に励むのは誠に嬉しい姿です。」 (島田療育園後援会便り、6 号、昭和 40 年 7 月)

この年の春、秋田魁新報夕刊では、島田療育園のおばこ天使を取材し、5 月に「この灯を永久に 島田療育園の春」(全 10 回)と題する連載企画を開始し、島田療育園で働くおばこ天使の元気な姿を郷里の秋田県民に伝えている。

連載の第1回では、入所している子どもたちの不自由な姿に驚きつつ、隣接する豪壮なゴルフ 場と対比させて、島田でけなげに働く秋田娘の声を伝えている。「どうしてこんな子が生まれるのか。なぜこんな子が生きなければならないのか。そしてなぜ生かす必要があるのか…“県庁のエレベーターガールをしていたころよりはずっと生きがいがあります。いまはただ無我夢中なんで す”(秋田市出身の今野さん)」

連載第 3 回になると、国の貧困な福祉政策への批判的論調が出はじめる。
重症児は全国で 3 万人と推定されているにもかかわらず、その収容施設が全国で民間の 3 ヵ所しかないこと。国はそれらの施設に研究費名目で年間各 400 万円しか支出していないことを記したうえで、各施設の介護職員不足によりベッドが空いていることを伝えている。びわこ学園では 100 床のうち 40 床があいているという。また、もっとも不足しているのは医師だとし、今後各県で施設整備をすすめるうえで大きな問題となるだろうとも指摘している。さらに経営面の窮状を見て次のように国の姿勢を批判している。

「島田では一人につき一ヵ月実費三万三千円かかり、収容児だけで百十一人。このほかに医師、看護婦、児童指導員、事務職員など百十一人さらに非常勤職員四人を含めるとばく大な経費となる。政府から二千万円の研究費が援助されたところで収容児だけの年間経費の半分にしか満たないありさまだ。したがって不足分は篤志家の寄付金に負っている実情だ。まったく“文化国家日本”が泣くではないか。たとえ二百人の小施設でもよい。政府はなぜ国立の施設を一ヵ所でも造れないのか。造ろうとしないのか。

全国三万の重症児をかかえる両親が愛するわが子の療育になすすべがなく涙していることを政府のお役人は知らないというのか。」(秋田魁新報、5 月 8 日付夕刊)

連載第6回と第7回では看護助手として働いている秋田市出身の竹内節子さん(22)の手記が掲載されている。この手記には島田の子どもたちと出会ったときの驚き、社会から置き去りにされた子どもたちへの涙と愛とともに、こうした子どもに対する国の社会保障制度の不備を次のように厳しく指摘した。

「島田療育園は財団法人であって、国立ではない。社会保障制度は、日本の恥部だと言う。それを知りながらいぜん、改めようともしなければ、前進もしない。島田療育園を訪れる人々は、それをもっとも痛感するだろう。」(秋田魁新報、5 月12 日付夕刊)

連載第 8 回では、加熱するマスコミ報道と秋田県出身者への特別視に対するおばこ天使のとまどいが掲載されている。

1965 年 4 月に島田療育園に看護助手として就職した者は 27 人、秋田から集団就職した者は 13 人(事務1人含む)であり、他県からの就職者もたくさんいたが、マスコミや国民からは秋田県出身者ばかりがもてはやされた。彼女らだけが特別視され、仕事を離れて新聞等の取材を受けることが度重なると、職員間に微妙な亀裂を生むことになる。

「慰問にこられることはほんとうにありがたいし、わたしたちへの励みになります。けれどそのたびに秋田県人ばかりが一室に集められたり、秋田の人たちと名ざしでこられることは困るのです。他県からたった一人でこられた人もいます。わたしたちは寂しいときは秋田弁でまぎらわすこともできるのです。それにわたしたちはここで働きたいからきただけなんですから……」
(秋田魁新報、5 月 14 日付夕刊)

この年の4月 27 日から2日間にわたって厚生省で開催された全国児童相談所長協議会では、おばこ天使の集団就職が大きな話題になった。

秋田魁新報は当日の模様を次のように報じている。
はじめのあいさつで、竹下精紀児童家庭局長が「社会の底辺で生きる重症心身障害児の療育に、このたび秋田県から十五人のうら若い女性が挺(てい)身したことは近年にないすがすがしいニュースだと考えます」と述べ、続いて登壇した翁久次郎企画課長も「数年来島田療育園が看護助手さがしに全国各県に陳情してなお一人も得られなかったのに、秋田県から一度に十五人もの応募者が出たことは驚異に値する」と述べたことから、島田療育園に集団就職したおばこ天使への注目が集まったようである。

島田療育園と同様の重症児施設びわこ学園が位置する京都代表からは、「京都府から何とかこの看護助手を出すよう努めましょう。(中略)重症児施設はどこも看護助手不足で困っているのだから各県が順ぐりに志願者を出すようにしたい。秋田県ばかりにまかせてはおけないと思います」との発言があり、会場からは大きな拍手がわき起こったという(秋田魁新報、5 月 15 日付夕刊)。

最終回の連載第 10 回では、就職後 40 日を経たおばこ天使の抱える問題として、「保母免許を取りたいが、近くに学校がないし交通費がかかる」「思ったより給料が良くない」「寮の設備があまりよくない」といった彼女らの不満を報じている。

島田療育園では、就職して 3 ヵ月目頃に離職する者が少なくなく、おばこ天使の場合も関係者の間では「三ヵ月危機説」が危惧されていた。秋田魁新報夕刊ではこの時期に合わせて、「この灯を永久に 島田療育園の夏」(全 12 回)というテーマで長期連載を開始している。

この連載の執筆者はおばこ天使のきっかけとなった記事を書いた渡部誠一郎記者であり、郷里の家族への近況報告と同時に、おばこ天使たちへ、記事を励みにがんばってほしいとのメッセージを送っていたものと思われる。

連載第1回では〈き憂だった3ヵ月危機説〉との小見出しを付け、次のように報じている。 「十五人はみんな明るく、元気いっぱい。“白衣のチョウ”のように、ベッドからベッドへ、子どもから子どもへ……と、休む間もなく飛び回っていた。
(中略)
魂を失った子どもたちにやさしく語りかける彼女たちの目は、愛情に満ちあふれた母親のそれである。うつろにみつめる子の口に しんぼう強く運ぶスプーン。突然発作を起こして食器をガバッとひっくり返す子。だが天使たちはだれもえ顔を忘れない。」(秋田魁新報、1965 年 6月 19 日付夕刊)

おばこ天使が全国的な反響を呼ぶなかで、その「愛の一石」の波紋は大きなひろがりを見せることになる。

連載第 2 回によると、4 月以来の約 3ヵ月間で島田療育園に届いた「看護婦志願の履歴書はざっと百五十通」に達し、その中から現在までに約 20 人が採用され、看護職員は秋田の 15 人も含めて 71 人に増加したという。

その結果、新入園児が 56 人も増え、169 床のベッドがようやく満床になりそうだと報じている。また、経営面でも全国から寄せられた「愛の金」が約 70 万円にのぼり、園財政には大きな助けになった。さらに有名人の来訪も慰問も増え、政界からは佐藤首相夫人、橋本官房長官夫人、芸能界からは坂本九、伴淳三郎などが来園している(秋田魁新報、6 月21 日付夕刊)。

三ヶ月危機説はき憂だったと先の記事は伝えているが、人里離れた施設での長時間労働により少しずつ変化を見せるおばこ天使の心のうちも伝えている。

島田療育園ではおばこ天使のような無資格の看護助手については、積極的に保母資格の取得を勧め、有資格者を講師にして園内で学習会を開いていた。この学習会の第1回は 1965 年 7月 7 日に開催されている。

連載第 3 回では、彼女らへの小林園長の思いを次のように伝えている。

「女性にとって、もっともたいせつなのは、いかに“りっぱな家庭人”になるかということ。貴重な青春のすべてをここに埋めてはならないし、そんなことは絶対にさせない。二年いてくれたら、ごほうびもの。三年いたら、こっちから追い出す。 その時、彼女たちになんの資格もないようでは、“青春の犠牲”があまりに高価すぎる。島田には、どんな施設にも学ぶことのできない宝があり、ここで耐え抜いた人なら、どこの施設に行ってもつとまる。つらいことは百も承知だが、心を鬼にしてハード学習をやる。」 (秋田魁新報、1965 年 6 月 22 日付夕刊)


4.おばこ天使第 2 陣:秋津療育園

秋津療育園は、家庭裁判所の調停委員だった草野熊吉が私財のすべてをなげうって東京都東村山市に設立した重度障害児のための施設である。1958(昭和 33)年 11 月、病院開設許可を得て、翌 1959 年 7 月、7 人の重度障害児を収容し重症児施設として歩みはじめた。島田療育園より 2 年ほど前のことであった。

おばこ天使第1陣の活躍ぶりを伝える秋田魁新報夕刊の連載記事「この灯を永久に 島田療育園の夏」第 5 回は、〈足りない看護婦 “島田の奇跡”を信じたい〉と題し、この秋津療育園の看護婦不足の窮状を〈嘆きの秋津療育園〉との小見出しで伝えた。さらに翌日も〈奇跡は二度と起こらないか〉との小見出しでおばこ天使の再来を待つ施設関係者の声を伝えた。 同園は開園以来看護婦不足に悩まされ、保母を合わせても看護職員は 19 人のみ。このため 129床の半分が空いていた。

この記事では、理事長他看護職員に東北出身者が多いこと、そして他の重症児施設よりも手当て等の待遇がよく、看護学校等へ通うにも駅から 15 分などと、島田療育園などよりも恵まれた環境にあることが強調されていた。 その結果、これらの記事を読んだ秋田の若い女性たちが“島田に続け”とばかりに、ぞくぞくと秋津療育園の看護助手に応募した。

「島田の奇跡再び 秋津には私が 看護婦志願ぞくぞく」と 6月 30 日付秋田魁新報夕刊は報じている。

<中略>

7 月 30 日、出発当日の秋田駅は見送りの家族はもちろん報道関係者、福祉関係者、県職員等でごった返していた。秋田駅での壮行会では、松橋副知事、大黒屋厚生部長が激励のあいさつ。おばこ天使第1陣のお礼をかねて県内の重症児の療育相談に来秋していた小林島田療育園長も見送りにきていた。こうして都合で遅れる1人を除く8 人がおばこ天使第 2 陣として、第 1 陣と同じ急行「第2おが」で上野に向かった。(秋田魁新報、7 月 31 日付朝刊)。

<中略>

保育助手として採用された藤原陽子は初めて見た秋津療育園の印象を次のように語っている。「秋津に行ってみて驚きました。まるでアバラ屋なんです。寮は雨もりがして、壁は落ちてる、女の子ばかりで物騒だから鍵をかけて寝なさいと言われたんですが、戸そのものがあかないんです。ガタピシいって。それでクギでとめました。」

また、「秋津療育園では、ここからこっちは看護婦、そしてそっちは保母の仕事というぐあいに、はっきりした区分はない。日課表にも見られるように、むしろほとんど同一の仕事をしなければならないのだが、どうしても納得できない面を感じたりすることもある」と述べた上で、重症児の療育では「保育に重点を置いたほうがいいのではないか」と記している。さらに、中学の同級生で「おばこ天使」第1陣として島田療育園に就職した友人から、「秋津は子どもたちが、のびのびと生活しているわ」との感想を聞き、医療を中心とした島田療育園よりも保育を中心とした秋津療育園に来てよかった、と記している(藤原、1967)。

彼女は検定で保母資格を取得し、秋津に1年半勤めたあと、秋田県の要請により東北初の国立重症児施設である国立秋田療養所〈本庄愛育園〉に保母として迎えられた。


5.その後のおばこ天使

高校在学中のため、おばこ天使第 2 陣に加われなかった女性を対象に、1965(昭和 40)年 12 月秋田市で改めて選考会が開催された。この選考会には 10 人の採用枠に対し、24 人の応募者があった。彼女らは 2 人を除いて来春高校卒業予定者であり、大曲農、秋田市立商、能代北、大館商、佳奈足農、敬愛学園など 10 校近くに及んだ。

<中略>

1966 年 3 月 22 日には秋津療育園に就職する者9 人が秋田駅を出発、東京に向かった。秋田駅での見送りの様子を秋田魁新報は次のように伝えている。

「発車三十分ほど前から同駅五番ホームは見送りの家族や友人、それに佐々木県中央児童相談所長ら関係者でいっぱい。小畑知事からの記念の万年筆を佐々木所長が一人一人に手渡し『先輩に負けずにがんばってください』と激励。“おばこ天使”たちはおりからの冷たい雨にもめげず、ほおを紅潮させて『秋津と秋田との“愛のきずな”をいっそう深めるよう努力してきます』とこたえていた。」(秋田魁新報、昭和 41 年 3 月 23 日付朝刊)こうして 2 年目も順調におばこ天使が、島田、秋津、東京小児等の重症児施設に送られていった。 その後数年間、まるで“出陣式”のようなおばこ天使の見送りの光景が繰り返されることになる。

おばこ天使の追跡ルポをはじめ支援報道を展 開してきた秋田魁新報は、3 月 27 日朝刊に「おばこ天使 あれからもう1年」と題する総括的な記事を掲載した。島田療育園に入った第1陣 15 人のうち 4 人が退職するが、この春の第 2 陣で「“愛の灯”はガッチリ守られ、同園の看護体制は磐石」だとし、感想や今後の抱負を伝えている。また後輩へ、次のような言葉も記している。

「私たちはひじょうに恵まれていた。“おばこ天使”と呼ばれたり、周囲からいろいろもてはやされたり…。(中略)ヒロイン気どりでいたり、異常な環境に自分を投げ込むことへの興奮や期待などが入りまじっていたのではとても長続きはしない。一生をこの仕事にささげようなどという悲壮感も私たちにはない。」(秋田魁新報、昭和41 年 3 月 27 日付朝刊)

周囲の熱狂にあおられるように就職して1年、一時の興奮からもさめ、障害者福祉施設の現実のなかで、自分の人生を見つめ直そうとするおばこ天使の姿を見ることができよう。

おばこ天使の集団就職は人数こそ年度によりばらつきがあるものの毎年全体で 10~20 人前後いたが、1972 年の 24 人をピークに漸減していく(細渕、2011)。この背景には、秋田県内の高校教師の間に、「東京へ人的資源をとられてはならない」といった反対運動が起こったことも影響していたという(小林、1983)。

秋田魁新報では、1972 年頃までほぼ毎年のようにおばこ天使を募る記事、出発の様子を伝える記事が紙面をかざった。1970 年には、島田療育園に就職しつつ農繁期には帰宅するという〈出かせぎ型のおばこ天使〉が始まったことを紹介、新ケースとして注目している(秋田魁新報、昭和 45 年11 月 21 日付朝刊)。

1973 年以降、おばこ天使関連記事はなくなり、1977 年 3 月 14 日付朝刊に〈おばこ天使再び 愛のともしび消えず〉との見出しで昨年度とだえた集団就職の復活を伝えているのみである。

この年、秋津療育園、島田療育園には各4人が就職した。この時点で島田療育園にはのべ 88 人が就職し、残っている者は 13 人、秋津療育園にはのべ 74 人が就職し、残っている者は 11 人だという(秋田魁新報、昭和 52 年 3 月 14 日付朝刊)。

この記事を最後に、秋田魁新報でおばこ天使の集団就職を伝える記事は見られなくなる。その後、島田療育園では職員の健康破壊問題に端を発した労使間対立が激しくなり、1974 年4月には小林園長が辞任してしまった。

最後のおばこ天使は1978 年に秋津療育園に就職した 3 人だが、比較的まとまった形での上京が大きく報じられたのは上記の記事が最後である。職員確保の中核人物を失い、秋田での組織的な勧誘活動ができなくなったことから、個別的なものを除き、おばこ天使の集団就職は消滅していった。

1980年 11月、初期のおばこ天使たちを中心に、東京・新宿の三井ビルでおばこ天使の同窓会が開催された。秋田からの参加者も含め再会を喜びあう姿が報じられた(秋田魁新報、昭和 55 年 11 月3日付朝刊)。小林園長の辞任とともに、おばこ天使の“愛と善意”によって、かろうじて支えられた重症児福祉の現場はひとつの時代を終えた。そして新たに、発達保障に根ざした権利としての重症児療育を求める時代を迎えることになる。


6.おばこ天使の光と影-離職の背景

1965(昭和 40)年以来、島田療育園、秋津療育園とも毎年のように秋田からおばこ天使が来ていたので、毎年新規就職者はそれなりに確保できていたが、それを上回る人数で看護職員が退職していったため、職員不足は慢性化していた。就職しても 3 年以内に大半が辞めてしまうのである。

全国的に有名になったおばこ天使だが、昼間は看護助手として重症児の介護をし、夜は看護学校、保育専門学校等に通う生活は、彼女らの想像以上に厳しいものであった。このため島田療育園に就職したおばこ天使第1陣の看護助手 12 名のうち、1年後には結婚退職 1 人、大学進学 2 人、他施設転職1人、計 4 人が退職してしまった。

おばこ天使も含め、早期退職する理由は第1に、給与水準を含め労働条件が悪いことであった。表面的な理由はさまざまであるが、無資格の看護助手という弱い立場での長時間労働や低賃金など待遇面での不満から、心身ともに疲れ果ててしまったのであろう。低賃金と労働過重が退職者を増やし、残った者がさらに過重な労働に追い込まれるという悪循環を生み、職員は慢性的な心身疲労に苦しめられた。その頃になると、重症児施設の労働者の健康破壊、職業病に悩む実態は広く国民にも知られるようになり、職員不足は一層深刻になっていった。

おばこ天使第 3 陣の西出優子はこの実態を次のように語っている。「島田に入って 1 年目に腰痛になりました。それから急性腎炎になって慶応大学病院に三か月入院し、その後秋田の県立中央病院に入ってました。その年の十二月まで秋田にいました。病気になる前、島田で土砂くずれがあり、停電断水になって大変だったんです。ひっぱりだされてモッコをかついだりして……。そんなことも原因かなと思うんです」

過重労働は職員の腰痛症、頸肩腕症候群等の職業病を誘発する。前述のように、こうした健康破壊問題は労働組合による待遇改善運動となり、長引く労使紛争は小林園長を辞任に追い込んでしまった(小林、1978)。

島田療育園の場合は、それに加えて立地の悪さも早期退職の背景として指摘できるだろう。都心から遠く離れた山里の環境条件では、資格を取るための看護学校や保育専門学校に通うのもひと苦労だったに違いない。疲れた身体で日々の通学は困難である。島田では職員による学習会を開いて学習の遅れを取り戻せるように手助けしたが、あまり効果はなかったようである。休日でも職員寮から出かけるところもない生活はストレスを溜め込むばかりだったに違いない。その点、秋津療育園のおばこ天使第2陣の女性たちは休日になると「所沢まで買い物」「池袋で映画」といった形で都会生活を楽しんでいた。

早期退職理由の第2は、マスコミからおばこ天使ともてはやされ、特別扱いされることへの抵抗感と職場での人間関係のストレスであろう。すでに述べたが、おばこ天使第1陣と同時期に島田療育園に就職した者は27 人いた。他県出身者が 14人もいたことになる。しかし、秋田県出身者ばかりが「おばこ天使」と呼ばれ、マスコミに登場し、注目を浴びた。小林園長がおばこ天使だけを集めて慰労する、見学者がくるたびに秋田のおばこ天使だけが呼ばれて仕事を離れるなど、他の職員とは違う特別扱いへの微妙な反感が職場に醸成されていった。こうした事情は秋津療育園でも同じであり、それを第2陣として秋津療育園に就職した藤原は次のように記している。

「東北人特有といわれる口の重さと、つい心を許し、たよりあっているという気楽さから、どうしても言葉を交わすのは、いっしょに秋田から来た人になりがちであった。そんな仲間意識が時として先輩職員の反感を買ったり、悪い印象を与えたりしてしまったようだ。」

またいじめに近い指導を受けたこともあったようである。「わたしたち九人のうち、だれかがほんのささいな失敗をしたりすると、『まったくあなたたちはなってないわ』と全員にいやみをいわれたり、二人の先輩職員に同時に違った用事をいいつけられ、つい一方が遅れてしまうと、『なんて責任がないの。そんなのろくちゃ、しょうがないじゃないの』と大声でしかられることもあった」(藤原、1967)

おばこ天使第 3 陣として島田療育園の看護助手となった西出も同様に、新聞各紙の重症児キャンペーンなどで脚光をあびることへのとまどいを記したうえで、同僚との関係についての悩みも次のように吐露している。「秋田県だけでなく全国から同じような志を持って働きに来ている人が一杯いたのです。秋田の人たちは中央児童相談所を通じて、結果的に集団みたいな形になっただけで、新聞に追い回されるのはいやだったし、不本意でした。」(西出、2002)

後に重症児を守る会の会長となる北浦静子もおばこ天使の声として、「彼女たちは『決して一時の熱情にうかされてこの仕事に就いたのではない。とくべつの目で見られるのはいやです』と、マスコミに騒がれることをきらいます」と記している。 遠く郷里を離れてきたホームシックに加えて、おばこ天使として特別扱いされるなかで、同僚との人間関係のストレスに耐えかねて、退職・転職した者もいたにちがいない。

早期退職理由の第3として、障害児とその介護・看護職員に対する世間、とりわけ郷里の地域社会の差別・偏見の存在を指摘しておきたい。当時のマスコミでさえ、おばこ天使の自己犠牲的“人間愛”をほめたたえる一方で、重症児には「生ける屍」「不幸の子ども」「宿命を背負った子ども」「恵まれない子」「愛のない子」「底辺の子」といったやや差別的表現がしばしば用いられている。とは言え、障害児に対するこうした表現は当時としては一般的なものであって、時代の障害児認識を示したものであろう。

障害児を人間の最底辺に位置づけ、彼らに関わる仕事を汚く、辛く、卑しい仕事だと考えるからこそ、彼女らを“愛”の言葉で持ち上げ、“天使”とたたえる必要があったと言えよう。そして貧困な福祉行政の谷間に置かれた重症児施設の救世主として過酷な“戦場”へ送り出したのである。 しかし、古い因習にとらわれがちな地方の農村社会では、必ずしもこうした賞賛の声ばかりではなかった。

秋田魁新報の追跡ルポ〈この灯を永久に 島田療育園の夏〉第4回では、家族からの手紙で郷里の反応を知ったおばこ天使の悲しみを取り上げ、「近所の声」を次のように記している。 「“親はどんなつもりで、生き地獄のような職場に娘を就職させたのだろうか”“A子にはなにか普通の職場には勤めることのできない秘密でもあったのではないか”“そんなところに勤めた娘を嫁にもらえば、不具の子が生まれるのではないか”…」(秋田魁新報、昭和 40 年 6 月 23 日付夕刊)

記事は、多かれ少なかれおばこ天使は全員こうした“郷里の雑音”にこころを痛めているとも記しており、「仕事がきびしく、勉強もままにならない環境」にあるおばこ天使への激励を呼びかけ、これは「心根のやさしい秋田娘への、県民のできるせめてものつぐないというもの」だと結んでいる。

秋田魁新報は翌日、「がんばれ療育園の秋田おとめ」との見出しをつけた社説を掲載し、「肉体的にも精神的にも、この仕事は文字どおりの献身的愛情がなければできぬ仕事」だとし、おばこ天使が「困難な条件にあえぎながらも」がんばっていることを応援しつつ、「彼女たちがつらいのは、仕事ではなくして郷里からの雑音であるという。残念なことである。なるほど十五人のひとりひとりにはそれぞれの事情もあろう。だが、それらの身辺の事情を超越している献身的愛情に、われわれはもっと敬意と理解を持つべきである」、と県民へ呼びかけた(秋田魁新報、昭和 40 年 6月 24 日付朝刊)。

2 回にわたりおばこ天使の長期追跡ルポを掲載した秋田魁新報はその後も精力的に関連記事を載せ、おばこ天使を応援し続けた。こうした応援がなければ、折れてしまうほど彼女らのこころは傷ついていて、仕事もつらいものだったということかもしれない。それでも耐え切れずに志し半ばで退職していった者も少なくなかった。

この年秋津療育園や島田療育園に就職したおばこ天使は新聞はもちろんのことテレビ・ラジオにもよく登場した。その年の 9 月 18 日にはNHK教育テレビ「若い広場」に秋津療育園の藤原陽子さんが出演、同園での仕事ぶりを紹介するとともに、今後の要望などを伝えている。また、11 月17 日には秋田放送ラジオが重症児対策を取り上げ、島田療育園の中沢婦長とおばこ天使が登場、「私たちは天使じゃない」との声を伝えている。 さらに年末にはNHK紅白歌合戦に招待されるほど、昭和 40 年を象徴する存在であった。


7.おばこ天使とは何だったのか

黎明期にある重症児施設が職員不足に陥る最大の要因が職員の「重労働」、「低賃金」にあることは言うまでもない。

発足間もない重症児施設でどれだけの職員が必要か、病院としての基準ばかりが追求されても、必要な看護職員の確保はきわめて困難であった。

治療としての医療よりも日常生活介護が求められる現場で、生活介護中心の職務内容は資格のある看護職員にとっては魅力に乏しいものであった。したがって、運営費に悩む施設としては低賃金で雇える無資格の看護助手や療育員等に頼らざるを得なくなる。

子どもたちの身体は大きくなる。体重が 40㎏を超える子も増えてくる。日常介護として、この子らを抱き上げたり、ベッドから降ろしたり、おんぶしたり、ちょっとした移動介護でも相当な重労働となる。しかも慢性的な職員不足により職員1人当たりの子どもの数は増える一方である。さらには月に 10 日近い夜勤もこなさなければならない。看護職員を失い、耐え切れなくなれば、は病棟の閉鎖しかない。入院するベッドはあっても看護職員がいない事態は異常である。

もとよりわが国では、福祉施設は慈善的色彩を帯びており福祉労働に〈奉仕の精神〉、〈献身の美〉を求め、低賃金、過重労働が合理化されてきた歴史がある。この体制を維持するには、若く“愛と奉仕の精神に満ちた”人材が求められたのである。 こうしておばこ天使が生まれた。

秋田魁新報をはじめ多くの新聞・テレビはこぞって彼女らを美化し、おばこ天使としてたたえた。秋田魁新報の渡部が名づけたという〈おばこ天使〉というネーミングは、「おばこ」という秋田地方で未婚女性や少女を意味する言葉に「天使」をつけたものであり、少女の純真さ、可憐さやけなげさを演出するのにぴったりであった。この巧みなネーミングも過酷な重症児療育の現場に身をささげようとする少女を誘い出すのに一役買っていたように思われる。

当事者の思いはどうであれ、マスコミ報道は過酷な施設労働の実態を知りつつ、「重い障害のある子のため」として、秋田の女性に愛の奉仕として集団志願を求め、それを美談として報じ、次の志願者の確保につなげる役割を果たしていたと言えよう。

川上はおばこ天使を、戦前に国のためと称して、多くの少年たちを〈満蒙開拓義勇軍〉として募った思想を受け継ぐものだとし、次のように批判している。 「この戦前が、戦後に続いているのが、この〈おばこ天使〉であり、いまの福祉である。高度経済成長のかげの部分で、農民は一人立ち出来ぬところまで追い詰められ、農民の出稼ぎが始まる。その頃、農村の中学を卒業したばかりの娘にまで手をつけはじめたのがこの〈おばこ天使〉である」

なぜ重症児施設に職員が集まらないのか、その根本問題に手をつけぬまま、愛の奉仕を求めて、おばこ天使の集団就職が始まった。しかし、彼女らの大半が3年以内に辞めてしまった。だから毎年のようにおばこ天使が必要となった。辞めて地元秋田に戻っても、その事実はほとんど報道されないし、なぜ辞めるのか、その背景を分析した報道もほとんどなかった。

1971 年 6 月に秋田市内で、おばこ天使のお礼に訪れた小林・島田療育園長、草野・秋津療育園常務理事、今泉・枚方療育園顧問、横山・「鳥海の園」園長が渡部・秋田魁新報社会部長を司会に〈急げ心身障害対策〉のテーマで座談会が開かれた。そこでは、看護職員不足の深刻さ、おばこ天使にたいへん助けられていることへの感謝は語られているものの、看護職員の確保につながる行政施策についての提言等は何も語られることはなかった(秋田魁新報、昭和 46 年 6 月 23 日付朝刊)。

重症児施設での労働条件の悪さに加えて職員の健康破壊、療育活動にゆっくり取り組めない中で重症児施設で働くことの展望を見失い、貴重な人材が数年で重症児療育の世界から離れてしまう。こうした実態を改善することなしに、おばこ天使を送り込んでも、一時的に現場の矛盾をおおいかくすことはできても、いずれ破綻する。こうして昭和 40 年代の後半、福祉労働者とその利用者の権利を守る要求運動の高まりにより個人の“愛と善意”による福祉は終焉を迎えたのである。


8.おわりに

1968(昭和 43)年当時、重症児施設では児童 2に対し職員 1 の職員定数であった。しかし、変則5 交替制勤務で、日中の児童対職員の割合は 5 対1 以下であった。このため腰痛症になっても代替職員をおくことができないため、休みをとれず健康破壊に至るケースが多かった。

重症児施設の看護婦や准看護婦の場合、手術補助や注射のような専門技術を高める機会は少ない。食事、排泄に関わる生活介護ばかりでは看護技術が低下するばかりである。病院である以上、一定数の看護婦がいなければ運営できないが、求められているのは生活介護と療育なのである。

療育の中心になるのは保母や指導員だが、その定員は少なく、有資格者の確保も難しいとなれば、看護助手や療育手という名の無資格者を募るしかない。そういう意味で、おばこ天使は財政難の重症児施設を救う安上がりの施設経営でもあったのである。

こう言っても小林園長らの施設経営を批判しているわけではない。国の低福祉政策のもとで、少ない運営資金により追いつめられた小林らが、個人の“愛と善意”に頼るしかなかったのも、また事実なのである。

おばこ天使の集団就職は大きな反響を呼び、秋田を始め全国から就職希望者が殺到、島田療育園や秋津療育園では看護婦、看護助手がほぼ倍増した。その結果、秋田から同園にはその年 5 人の子どもが入所できた。また、国立重症児施設の秋田県設置も決まった。 おばこ天使の“愛と善意”が実を結んだことは確かである。

秋田おばこが示した“愛と善意”は尊い。しかし、“愛と善意”に依存する福祉では、職員の健康も重症児の生命も、発達も守れないことを、びわこ学園の職員は療育実践のなかで確認つつあった。こうして、福祉の現場で働く職員及びその利用者の生命と権利を守る要求運動と連携した、重症児の発達保障への取り組みが夜明けを迎えたのである。
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